第ニ話 百合

1.喫茶店


乳白色のロウソクが灯る。

火をつけたのは長い黒髪の女…憂いを湛えた表情、儚げにも見える風貌だが、咥えた煙草が似合わない。

(きれいなねーちゃんだ。)滝はきわめて男性的な感想を持った。

女はマッチを軽く振って火を消し、燃えさしをポトリと落とす。 

煙草を指の間にうつし、薄い煙を呼気に乗せた…煙が女の姿をあいまいにする。

「…私の番ですね…」 ややハスキーな声とともに女が語り始める…


----喫茶店「マジステール」----


キィ…喫茶店『マジステール』の扉が開き、一人の青年が入ってきた。 あどけなさを残した顔立ちは、時々に彼を

少年に引き戻す。

彼はゆっくりと首を巡らした。 手にした本が彼の目的を無言で語っている。

店内は落ち着いた雰囲気だが、テーブル席は読書には少し暗いようだ。

彼は午後の日差しが落ちる窓際カウンター席の端に腰をおろした。 


カウンターに本を置いた彼の目の前を、一条の煙がよぎる。

目だけで煙を辿ると、カウンターの反対の端、店の奥に行き着いた。 影の中に隠れるように一人の女性が座って

いる。

ちぇ…微かに舌打ちする。 彼女が煙草を吸っているのが気に入らないようだ。

(綺麗な人なのに…)

年の頃は30前後だろうか。 コーヒーカップを相手にゆっくりと煙を吐いている。

切れ長の目がすっとこちらを見た。 慌てたように本を開き視線を落とす青年。


初老のマスターがグラス・ウォータをカウンターに置く。

「ご注文は?」

「あ…ブレンドをお願いします」

マスターは頷き、豆をミルにかける。 豆が砕かれる音と香りがそこを『喫茶店』にする。

青年は豆の香りを楽しんだ。 と、その中に別の香りが混じる。

(…花?)甘い香りは何かの花か…何の気なしに首を巡らし、香りの源を捜す。

彼の目の前を再び薄い煙が横切った。 彼は一瞬眉をしかめ、それが香りの源であったことに気がついた。

え… 予想外の事につい声が出た。

その声に女がゆったりした動作で彼を見る。

「…御免なさい」微笑をのせた唇が、謝罪の言葉と甘い煙を同時に吐いた。

ふわりと少し濃い煙が彼の顔を撫で、甘い香りが強くなる。


彼は頭を振り煙を払う。 女の無作法が腹立たしい。

「変な煙草ですね」つっけんどに言って不快感を表明する。
「そう…」女は手にした煙草を見たまま気だるげに言った。 煙草から青みを帯びた煙が真っ直ぐに昇り…空調の僅か

な風に乗って彼の方に流れてくる。

細い煙は彼に纏わりつき、鼻腔にまたあの甘い香りを感じさせる。 

あ… 先程の煙よりさらに甘く、蠱惑的な香り… 胸が…そして男の部分が切なさを訴える。 彼はまぶたを閉じ、そ

の不思議な感覚に酔ってしまう…


それは一瞬だった。 彼は我に返り目をしばたたかせる。 そして、その妙な煙の香りを快いと感じた自分が腹立たし

くなった。 ことさら乱暴に手を顔の前で振り煙を払う。

ふっ…その仕草がおかしかったのか、女の唇が笑みの形を取る。 ますます気に入らない。

「ゴホン!!」 今度はわざとらしく咳をしてみせた。 が、力を入れすぎたようで、むせかえってケホケホと咳き込む。

女がそんな彼の様子を見てクスクスと笑った。

(うっ…)ここで青年は、怒るか、不機嫌になって無視するか、照れ笑いを浮かべるかの選択を迫られた。

ことさらお腹に力を入れて女を横目で睨んだ。 女はまだクスクスと笑っている。 

コトリ。 マスターが彼の前にコーヒーを置く。

「…ぷっ…」とうとう、彼も笑い出した。


青年は彼女の隣に席を移した。 

「この煙草、ずいぶんいい香りですね。 香水入りですか?」 女の煙草の一本を手にとって聞く。

女は相変わらず気だるげに応える。「…こういう香りの葉…いえ…」そう言って指に挟んだ煙草に視線を移す。「…花

びらから作るの…」

「花から?」青年はちょっと驚いた。「…初めて聞きました」

そこで会話が途切れた。

女はぼんやりと宙を見つめ、煙を吐く。 白い煙がユラユラと流れ、また彼の顔を撫でた。

いい香りだが、さっき感じたあの甘酸っぱい感じはしない。

(…一度吸った煙は少し香りが違うんだな…)ぼんやりとそんな事を思った。

白い煙が彼の鼻梁から頬に纏わりつき、唇をそろりと這い、ゆったりと首筋に流れていく…

女は煙を目で追い、最後に青年を見つめた。 濡れた眼差しが彼を見つめる。


青年は自分の鼓動が早くなるのを感じた。

勇気を振り次の言葉を口に乗せる。「あの…お名前はなんと」

「百合…」そう言って、彼女はゆらりと席を立ち、そのまま出口に向かう。

青年はがっかりする。 彼女に拒絶された…。

「来ないの…?」

『百合』の声に青年は顔を上げた、ドアの所で彼女が半開きの戸を支え、顔を半分だけこちらに向けている。

青年は立ち上がり、彼女を見つめたままポケットに手を入れ、中身をカウンターにつかみ出した。 そして、『百合』の

後を追った。


背中を向けてグラスを磨いていたマスターは、店の中が静かになったの気づき振り返る。

カウンターに置かれた伝票と財布、携帯を見つけ、困惑したように首を捻る。

「あの客…何か言ってたな…一人で」携帯を取り上げて呟く。「戻ってくるかな…」

『彼』は戻ってこなかった。

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